唯、私を知り尽くす貴方の話


夜助×飛鳥 (夜←飛前提にモブ×夜飛ぽい描写も有)

「そろそろいい加減にしろよ」
「それはこっちの台詞だ」
 ある晩の事だった。普段と変わらぬ一日を過ごしていた筈の鬼灯の寺。古く薄い寺の壁を筒抜けて、男女の言い争う様な声が鮮明に耳に届いてくる。
 義空は、読んでいた書物から目を離す。軽くため息を吐くなり書物を投げ捨てる様に床に放った。煙管に手を伸ばし、火入れ炭で火をつける。その間も常に男女の言い争う声は絶え間なく聞こえてくる。それも、普段ならば直ぐ収束するであろう頃合いを過ぎても、まるで火がついた様に苛烈を増し、互いを罵倒する言葉が止む事が無い。
 煙管を吸い、ふっと煙を吐いては視線をぼうと上にあげ、徐に立ち上がる。声のする方へ、ふらふらと歩いて。

「いつになったらテメェは俺の思い通りに動ける様になるんだ?何をするにも粗末で、半端で……そんなんだから敵から情けねぇ刀傷なんざ貰うんだろ。よくもまぁその程度で俺に口答えが出来る。」
「思い通り…?自身を理解させるつもりもない癖に…よくもまだ私に非があると!?お前に言われずとも解ってるし、私は私なりに、いつだって最善を尽くしているつもりで…!今回だって」

 耐える事なく互いに言い合いを続ける男女二人────田心夜助に、田心飛鳥。
 二人は兄妹だ。然りとて、特別仲が良いという訳でもなく、それらしいやりとりがある訳でも無くて、鬼灯において日常的に見れる互いのやり取りといえば、こう言った仕事でのお互いの愚痴を込めた「喧嘩」ばかりで。
 大抵は飛鳥が言い負かされ言葉を奪われている。然し、今日の飛鳥は普段よりも数段と躍起になっている様で、夜助の言葉に対し、決して反抗を止めない。それに対し夜助も夜助で、自身の言葉を彼女が認めて引かない事に一層と腹を立てているのだろう。より強い言葉で彼女を威圧的に責め立てている。
 互いが一歩も引かない罵詈雑言は聞いていて此方も気分が良いものでは無い。況してや二人は兄妹なのだから。

「何事だ。酒が不味くなるわァ」

 廊下に出て遠くから二人に声を掛ける。強く刺激しない様、普段と変わらぬ緩く締まりのない声で、仲裁とならずともせめて二人の意識が互いから逸れる様に。
 ふっと夜助の視線が此方に向く。それと同時に、此方に背を向ける形で夜助に向き合っていた飛鳥が慌てた様子で振り返って、気まずそうに眉を顰める様子が遠目からでも確認出来た。二人の方へと徐に歩み寄る。
 そうすれば義空にこれ以上の言い合いを聞かれたくないのか、夜助も飛鳥もそれ以上は黙りを決めたが、これ区切りとも言わんばかりに最後夜助がくいと顎で飛鳥に指示をする様に

「──往ね。うんざりだ、お前には本当に。」

 無表情でそう吐き捨てるのだ。
思わず片手で頭を抱える義空を他所に、飛鳥はそれを聞けば言葉を飲み唇を震わせて、怒った様な悲しそうな───複雑な顔で、小走りでその場から立ち去ってしまう。その場に残り、壁にもたれかかる夜助は一方表情涼しく、彼女に吐いた言葉に後悔する様子も、撤回したい様子も一切無く。
「節介か?飲んだくれが首突っ込んで来てんじゃねぇぞ」
 義空に向けて低くそう吐き捨てた。自分らを案じ声をかけた義空の考えを知っているのだろう。余計な世話だ、とでも言う様に冷たく言い放つ彼の言葉は、やはり威圧的ではあるものの、義空にとっては最早慣れ親しんだ物で、特別その言動に怯む事も無い。煙管をもう一つと口に含み煙を吐きながら、その場で足を止めると夜助と一定の距離を保ち会話をする。

「夜助、少々言葉が過ぎるのでは無いのか?お前らしくも無い……何を二人で躍起になっているのかと思えば」
「五月蝿い」
「忍である前に飛鳥はお前の妹だろうに。兄であるお前が、奴への理解を忘れて如何する気だ?」

 ハァ、と一層大きなため息を吐く。乱雑に髪をかきあげ、視線を此方に向けないままで夜助は再三とばかりに呟いた。

「──五月蝿いと、言ったんだがな」

 その言葉を聞き片眉を上げて肩をすくめる。この様子では最早何を言っても駄目だな、とばかりに義空もつられてため息が出た。此の儘変に彼に意見をすれば、彼の怒りの矛先が此方に向くのは火を見るより明らかだろう。たった一言のみで多くを語らぬと言えど、彼が此方の口出しに対し非常に不快感を表しているのは、明確なのだから。
「あァ解った解った。故そう怒るな?お前も部屋で休むと良い。明日もお前に任せた仕事があったろう?万全で挑め、ヘマは困る。」
 夜助の視線が煩わしそうに此方に向いた。然しこれ以上彼も何を言うつもりはないらしく、不機嫌そうな表情はそのままに、ふいと背を向けて早歩きで自室へと戻っていく。その背中を見送り、義空は煙管を手で弄びながらぼうと誰もいなくなった廊下を見つめた。

───夜助は決して半端を許さぬ、"完璧な成果"に拘る男だった。鬼灯に彼を迎えた時から、彼へ与えた任務に、義空は不十分さを感じた事が一切無い。期待に必ず応えてくれる、否それ以上を魅せてくれる、本当によく出来た男だと評価していた。然し、それは自分だけに留まらず、自身の妹弟達にも夜助は後れを許さぬのだ。飛鳥には特にそれが顕著であり、定期的に二人で言い合いをしては、あの様に罵り合いに発展する。今回は特に、それが酷かった。
 賢い男だ。だからこそ飛鳥を理解していない訳では無い筈。それでも躍起になるのは、彼なりに様々な思いを抱えているが故かもしれないが、彼が語らぬ以上は憶測でしかない。だからこそ、時折柄にも無く心配をしたくもなってしまう。

 参ったな。明日夜助に与えた任務は、夜助に加え飛鳥を含めた半蔵と柚月の隠密任務だった筈。あの調子で互いに協力等し合えるのか──と今日の様子を見るとほんの少しだけ不安にもなる。私情に流されて仕事を粗末にする者達では無いとは言え、喧嘩を無かった事にも出来ないだろう。唯溝が深めるばかりで、それを埋める事をしないのも、あの兄弟の問題の一つなのだと思う。



──


「──で、今回の標的って言うのが〜?」
「各地で怪しげな薬をばら撒いてる、町医者かぶれの密売人らしいね。裏で代官や商人に有害薬を売ったり女を手籠にもしてるらしい。絵に描いた様な下衆野郎って訳。」

 任務翌日。木の上に立ちながら遠くの屋敷に目を凝らし、軽い調子で返答する、半蔵の言葉に「ウンウン」と柚月が興味深そうに頷き相槌を打っている。日はとっぷりと落ちて、辺りは薄暗く静まり返り、時折聞こえるのは風の音、羽虫の飛ぶ様な僅かな音ばかりで。
「にしても屋敷、随分広いね?だからあたし達全員を寄越したのかな?誰かが囮になる必要あったりする?」
「ん〜。どうだろ。ねぇ旦那。」
 同じく木の上から仮面をずらして目を凝らす、夜助へ視線を向けると半蔵は彼に指示を仰ぐ。無言で腕を組み、冷静に頭の中で侵入経路を定めて行く。確かに屋敷は存外広いが、この程度、経験上問題無い。相手は密売人、それでいて此方に対抗する為に扱う人材も恐らくはたかが知れている。戦の無いこの時世、自分達の腕を凌駕する程剣技に長ける用心棒や侍など最早居ないと言っても過言では無いのだ。
 例え何かあっても最小限の人数で対処できる。
「陽動は必要無い。飛鳥と柚月は合図がある迄此処で待機してろ。半蔵は、俺と来い」
「あ、俺が同行すれば良い感じ?了解。」
 夜助が立ち上がったのを合図に、半蔵もまた首から下げた仮面をとる。柚月の「いってらっしゃい」なんて言った緩い声かけを背に仮面をつけ、一歩踏み出そうとした矢先──半蔵の肩をトン、と誰かが背後から掴み止める。
 振り返れば其処には不服そうな顔をして此方を見る飛鳥が半蔵の肩に手を添え、そうしてはサッと自分が彼の前に出て無言で仮面を掛けるのだ。あからさまな程の夜助のため息が、彼女の耳にも当然届くだろう。
「……俺はなんて指示したよ?」
「私は留守番などしない。待機なら半蔵と柚月に任せて、素直に私を使えば良い。お前の動きに順応出来るのは、この中では私が随一の筈」
「自惚れるな。足手纏いだと言われねぇとわかんねぇか」
 自身の指示に反抗する様な行動を見せる飛鳥に、当然夜助は苛立ちを見せていた。先日の任務で負傷の身となった以上、万が一の後れを取られぬ為にも飛鳥を同行させる事は夜助の考えには最初から無かったのだろう。然しそんな夜助の考えを察してか、飛鳥もやはり、今回とて一歩も譲らず、彼の言葉に一息おきながらそれでも半蔵の前から退く事はせずにいる。唯、前を見据えたまま。

「……憂うな、お前の枷にはならない。今回も私が行く。半蔵と柚は此処で待機を」
「え、えぇ〜〜……姉さんマジ?いや、姉さんなら大丈夫とは思うんだけどさ……」
 言葉では冷静にみえても何処か意地を張っているのが半蔵にだって透けて見えていた。だからこそ対処に困る。助け舟を求める様な半笑いの困り顔で、半蔵は首を摩りながら夜助へとチラと視線を向ける。彼は無言だったが、仮面で表情が見えずとも然し顕著によく伝わるのは、夜助の飛鳥へ対する強い呆れだった。それで全てを察する。勘弁してくれ、と間に挟まれ空を仰ぎ苦い顔をする半蔵の思い虚しく、凍りついた様な刻は変わらないままで。
「……」
 無言のままふいと顔を前に向けた夜助は、一歩踏み出した。何処か困った様な表情で二人のやり取りを見守る半蔵と柚月を置いてけぼりに、ぼそりと。

「本ッ当に俺の言う事聞かねぇな、お前は。」

 小言の様にそうとだけ吐き捨てて、あとは何を言うこともなくザッと屋敷の方へと飛び立っていく。その夜助の背中を追う様に、飛鳥もその場を素早く発ってしまった。
 ぽつりと残された半蔵と柚月は、唖然とした顔のまま視線を見合わせて。
「……兄さんと姉さん。仲直り、まだしてないみたいだねぇ。」
「しないでしょ、あの二人なら。姉さんもムキになりすぎなんだから。」
 ぽつりと自分達の兄と姉の先日の亀裂について、ひっそりと小言を漏らすのだった。



────


 音もなく背後に周り、無防備な首を一文字に掻っ切る。自身の血反吐に溺れる様な声を上げ、力無く床に倒れる男の死体を近場の部屋へと投げ捨て、襖を閉めた。次々と屋敷奥深くに潜入していく。任務は存外順調──だが、夜助と飛鳥の中は変わらずで、お互いに対し掛ける言葉は任務内でも一切無かった。軈て広い屋敷に手分けして潜入する事を暗黙で決め込み、結局交わす言葉などないままお互い別行動となっている。が、普段とて然程その流れは変わらないのだから、今ではそんなこと問題ではない。

──静か過ぎる。

 それは飛鳥の事では無論なく、屋敷の内部其の物について。夜分の商人屋敷とは言え、それなりの番兵は内外共に付けておく筈。然し此処は屋敷の広さに対し番兵の数があまりにも見合わない──。人の気配はあると言うのに、視界に捉える番兵の数はあまりにも少数で、敵ながら不用心だ。
 歩んでいく先、唐突にぴたりと夜助は足を止める。片膝をつき、床に手を添え軽く床を押し込めば、違和感が音を上げその正体を夜助に知らせる。
──キュ。キュ。
 鳥の鳴き声によく似た軋み音。成る程、鶯張りとは、何とも久しく見た。忍び返しのつもりだろうが、この程度の絡繰、種が解れば回避も容易なのだ。なんとお粗末な防衛態勢か、侮られた物だとさえ思う。この辺一体に人を歩かせていないのはその為かと察し、得心が行った。それ以上の廊下を進まずに天井板を外し、天井裏へと侵入をする経路へと変更すると、薄暗い天井裏を忍足で進んでいくその最中、埃の香りに混じり、ふわりと異様な香りが鼻を擽った。
──これは、香か。
 仮面越しでもよく伝わる天井裏一体に溢れる強く甘いその香りに、思わず顔を顰める。恐らく商人の部屋で焚いている香の香りだと察するが、金持ちの人間と言うのは、熟こういった無駄な物に金をかける物だと呆れ返る。咽せ返る様なこの香りの何が良いのかと、夜助には殆理解が及ばない、早いところ済ませて外の空気を吸いたいくらいだ。
 天井裏を少し進んで行くと人の気配を確りと感じ取れる。天井板をずらし、部屋の様子を見れば薄暗く灯る行燈に照らされ、標的である商人の頭が視界に届いた。商人は書き物をしており、此方に背を向ける形で座っている。夜助は標的の商人の姿を捉えると、片膝をつき仮面をずらし、懐から苦無を取り出して其れを口元に加えた。天井板に両手をかけ、舞うように、然し音を立てず、手慣れた様子で彼の背後へと着地をする。あとはその無防備な頸目掛け、刃を走らせれば良いだけ──。咥えた苦無を手に持ち、確実に仕留めるために刃を構える、その時。

「──鼠か。存外早かった」

 ポツリ、商人が筆を止め唐突に言葉を発した。
…潜入に気付かれた?否、凡人である筈の斯様な商人に、何故そのような事予測できる。否、考えるより先にと苦無を振るう。構う物か、相手が武道を知らぬ無力な商人ならば、例え今更気付いたとて此方が刃を振るう方が圧倒的に早いのだ。
 然し──

「ッ!」
 コト、と唐突に床が抜ける感覚を足に感じる。罠床だ、と咄嗟に高速で事態を理解し、生まれつきの反射神経を命綱に地を蹴り後ろへと素早く後退した。然れど回避した先の床も、是又仕掛けが施されていた様で、それは床を突き抜け、刃となり夜助の片足の甲を貫いた。予測しない痛みに思わず身体の均衡が崩れ、ガクリと片膝が衝撃に怯みかける。それでも倒れまいと踏ん張った片足で、もう一度商人への襲撃を望もうとしたがそれより前に襖より数人の武装した男達が、まるで用意をされていたかの様に一斉に飛び掛かって来るのだ。一連の絡繰が、それはもう滞りなく完成されるように。

「お前、鬼灯の殺し屋、だって?中々だ。潜入はまるで気付かなかったぞ」
 数人の男に荒々しくも床にうつ伏せで押さえつけられ、手に持つ苦無を蹴り飛ばされる。おい絡繰屋敷かよ、此処は。なんて──こんな状況でもそんな言葉が頭に浮かぶのだから、割と頭は冷静なのかも知れない。とはいえ、敵方を侮ったのは自身の不覚だ。この程度の事なら幾らでも自分なら巻き返しが可能とはいえるも、然し任務に少しの遅れをとった事が何より腹ただしくて堪らない。
 商人が此方へと歩み寄ってきて、徐に手前でしゃがみこむと夜助の仮面を取り外してくる。素顔が晒されれば、彼の顎を荒々しく掴み上げ、強引に自分にと視線を向けさせた。斯くも無遠慮に触れられる事と言い、鼻をツンとつく不快な香りといい……げにや、不愉快極まる。尚夜助の顔が不快感に顰められれば、そんな彼の心情を知ってか知らずか、商人は鼻笑いを溢し仮面を投げ捨てた。
「何だ、義空の使いの忍と聞いたから如何様な者かと思えば……唯の若造じゃ無いか。貴様一人か?ン?」
 返答等する気はない。ただ涼しい顔で動じずに、商人の顔をじっと見つめてはたった一瞬の"隙"が生まれるのを静かに待つ。然し、そんな夜助の態度が気に食わないのか、商人は突然夜助の顔面をバシンと力一杯に叩くのだ。口腔内にじわじわと広がる血の味に、どうやら自分の歯で口内を切ったな、とぼんやり察する。
「随分と余裕だな、忍よ?此処から打開出来ると鷹を括っているのか?それとも、共に潜入したくノ一に……何か策でもあったのかな?」
 ぴくり、と眉を顰める。それと同時か、後方の襖が開き背後まで誰かが歩み寄って来るのが耳に届く。刹那、ドサリと力無く何かが床に投げ捨てられ、唯一自由である視界を音のした方へと向けると、そこにはぐったりと脱力した飛鳥の姿があって、一瞬、夜助の表情が曇る。
「……」
「お前の仲間だな?」
 眉をぴくりと顰める。飛鳥は意識があり、床に倒れ込んだ後もフラフラと覚束ない手先で床を掻き、起き上がろうと力を込めている。然し、何やら体に力が入らない様子で、その動きは弱々しく、口惜しげに唇を結んでは視線を夜助に向けて来る。明らかに様子がおかしい事は、明確に感じ取れた。何より飛鳥から香る、彼女には似つかわしくない程酷く咽せ返るような甘い香りに、夜助は目を細めた。
「何故儂らがお前達の潜入に気付けたか……その絡繰りを、無能なお前達にも教えてやろうか」
 視界の端で商人が得意気とばかりに話を進める。うるせぇなコイツ、と煩わしげに視線を商人に戻した矢先、夜助の眼前に見た事もない見た目の香を差し出しそれを見せびらかす様に笑う商人の顔が目に入る。その笑みを見て、何となくでも全てを察した。──穴は、この香にあったのだと。
「この香は外来から取り寄せた希少な物で…人の体温に反応して香りを発する様出来ている。それも僅かの温度差で、かなり強い香りを出すのだ。貴様ら鼠は屋根裏やら床下やら、薄暗く狭い所を好むのだろう?その辺りに設置しておけば…ほれこの通り。この香のお陰で貴様らに寝首をかかれずに済んだという訳よ」
 嫌味な笑みを浮かべる眼前のこの商人の顔に、一体何発蹴りを入れてやればこの苛立ちは収まるのか。よもや自分が斯様にも単純な罠にかかるとは思わなかっただろう。否、驕りもあったとは言え、然りとて相手側の全てが上手くいき過ぎているこの現状、此処までの不足を許すなど、憎らしくて堪らない。
 商人は夜助のその苛立ちを含めた表情を見て満足そうに笑うと立ち上がり、彼を眺めるように前方に座った。そうして、何やら新たに香を焚き始めるのだ。

「さてさて、愚かな犬二匹を殺し捨てる前に、少しばかりの余興でも、楽しむとするか?」

──その言葉を皮切りに、途端に香るのは先程よりも強い香の香り。
 本能的に吸ってはいけない物だと察し呼吸を止めたが、あまりに喉を焼く様な強い香りに咄嗟に夜助は咳き込んだ。何のつもりだ、と睨みをきかせ商人に視線を向けたが、その表情が卑しくニヤついているのを見て、何となく、不穏を感じ取る。
 そして、自身の視界がぐらり、ぐらりと水面の様に揺れる違和感に、瞬時に気付いた。否それだけに留まらず────熱い。熱いのだ、どうしようもなく、己の身体が。まるで内から火照るようにふつふつと熱を持ち始めるのを明確に感じる。思考を覚醒させるように床に頭をガツンと打ち付け、深く息を吐いた。その俯き加減のままで、飛鳥の方へ様子を伺う様にチラと視線を向けるが、彼女も自身の体を抱く様に、床に疼くまり震えている。その様子から厭でも全てを察するしかない。飛鳥が先に盛られたのはこの香なのだろうと。

 意に反して熱くなり力の入らなくなる自身の体の変化を感じ取れば、それも理解してしまう。要するにこの香は"そういう作用"の一種の麻薬だ。それも強く即効性の物で、重複して念入りに取り入れられたのか、毒や薬に免疫のあった飛鳥も目に見て解る程に弱っている。それを自分らに盛ってどうするつもりなのかまでは夜助とて推し量れぬとは言え、こんな物を嬉々として扱う者に碌な人間などいる訳が無い。
 浅く呼吸を繰り返す。じわりじわりと汗が身体に滲むのを感じ、先程までどう返り討ちにしてやろうかと策を練っていた思考も霧がかかったように白み始め、必死に思考を放棄するなと自身に内心で叱責を与える。然れどなんとも口惜しい程にこの身体は"この手"の物に弱い。

──体に力が。力が、入、らない、

「正に極楽、心地の良い薬だろう」
 絡みつく様な声色で此方を伺う様に発する男の言葉に、思わず黙れよ変態、なんて頭の中で愚痴を吐きながら、鋭く商人を睨みつけた。自分を抑えつけていた男達が夜助の両腕を引き、強引に彼の上体を起こさせる。かと思えば、男達は夜助の身体を荒々しく飛鳥の方へと放り投げ、夜助はされるがまま軽く投げ出される形で飛鳥の隣へと倒れ込む。
 拘束から解放されたと言うのに、身体が痙攣している。徐に上体を起こし、遠くに投げ出された苦無に視線を向けたが、周りにいる数人の男達がそれを許さぬとでも言うように足元に踏みつけた。…と、思えば、商人はそんな夜助と飛鳥を見て、是又嫌味な表情でこう、吐き捨てるのだ。

「忍、命令だ。其処のくノ一を犯せ」

──は。

 その言葉の意味を疑った。よもや理解が及ばないと言う訳ではない。到底正気とは思えなかったからだろう。自分らに吐き捨てられた侮辱を意味するその発言に顔を顰める夜助を見て、商人は下卑た笑い声をあげながら再度飛鳥を指し示す。
「おや聞こえなかったか?其処の女を犯せ、と言ったのだ。好きにして構わん、死ぬ前にせめて儂を楽しませるのだよ。最期の余興としてな」
 再三とばかりにそう発する男の言葉に、怒りだけになく凄まじい嫌悪が煮えたぎる様に内から湧き上がる。義空め、とんだド変態を寄越してくれた。全く狂っている。ただ沈黙し目を細め、射殺すかの様に商人を睨みつける夜助に対し、一方で彼の側で尚も伏せたままの飛鳥は商人から受けた言葉の意味を理解し、あからさまに表情を引き釣らせている。その視線は夜助を見上げ、僅かであるものの何処か動揺している様にも思える。
 そうだ、そういえば此奴は…拗れた男嫌いだったか。

「馴染み深い女に手を出すのは気が引けるか?何を戸惑っている。ほれ、早うせぬか。それともいや、お前は女が犯されるのを見る方が好みだろうか──」
 周りを囲む男の一人が煽る様に飛鳥に手を伸ばし始めて、反射で近付いた男を蹴り飛ばし、威嚇をした。飛鳥が薬ですっかり無力化してる今、此方が何か策を練り行動せねばこの状況は打開できはしない。かと言って義妹が輪姦される様を見る趣味なんてある訳が無いのだ。それでいて此方だって理性を保つのに精一杯だというのに、口惜しい。
 ああ"枷にはならない"だなんてよく言えた。確りとした足手纏いだ。それをよくもまぁ上等ぶって、自惚れを振り翳し、弟妹の手前と意地を張れたものだと───

「──……!」

──ふと、飛鳥への小言をくどくどと脳内に渦巻かせている最中、其処で一つの考えが過る。
 そう、今目前にいるのは飛鳥なのだ。血の繋がりは無いと言えど、彼女は確かに関係上は夜助の妹であり、それでいてかつては夜助と同様、田心にて上忍の位を勝ち取った女だ。彼からみれば確かに半端で、決して上等とも言えぬ技前でも、然りとも飛鳥は一端の忍。否、其処らの忍と比べても、決して見劣りなどしない実力を持っている事、それは兄である自分が確り理解している。
 そして、自分が過去彼女に教え込んできた事が、もし誠に彼女の身になっているのだとしたら、それは探れば答えとして必ずや明らかになること。もし、彼女が真に"順応できる"忍ならば。
 飛鳥を犯せと、況してや忍である飛鳥に触れる事を執拗に促す"この状況"ならば、或いは。

───上手く扱えば一転して、これは此方側の好機になる筈。

「ッく…!?」
 俄然、彼女の視界が天井へと回転する。飛鳥の胸ぐらを掴み、夜助は何を言う事もなく強引に彼女を組み敷いた。勢いで背部を打ち、乾いた咳を漏らす飛鳥の上に跨る夜助の姿を、飛鳥は下から見上げる形となり、夜助を捉えるその紅桔梗がぐらりと明確な動揺に揺らぐ。

「……や、夜助…?」
 此方の様子を伺う様に、震えながら自身を呼ぶその声は、薄らと恐怖に濡れている。予測範囲内の反応だ。然しこればかりは、耐えてもらわねばならない。
 否、耐えられる筈。"俺が仕込んだお前の体"ならば。

 胸ぐらを引き、引き裂く様に彼女の着物の上衣を乱した。力任せに開けば、衣が破れる音として、飛鳥の代わりに装束が悲鳴を上げるようにキシキシと鳴いた。咄嗟の本能が働いてか、思わず上体を庇う飛鳥の片腕を、力任せに床に押さえつける。そうすれば飛鳥の表情がはっきりとした恐怖に堕ちていく。
「や、夜助!?如何して…如何して!斯様な奴等の言いなりになるつもりか!?」
 自分と同じく、敵前で沈黙を守っていたであろう飛鳥の口が、この事態に置かれついに暴かれ開かれる。悲痛にも自身に理性を訴えかけるその言葉すら聞き入れず、夜助は無表情で飛鳥の顔横に手をつくと彼女の動きを封じるかの様に覆い被さる姿勢へ変えていく。
「はは、おやこれは見ものだ。男の方が先に吹っ切れたか。忍と言えど、やはり男。死の目前香る女の色香には敵わぬか?」
 興味深そうに身を乗り出して此方の様子を見る商人、そして背後からも突き刺さる様な数人の視線を身に浴びて、それは酷く悪辣な性への興味を今夜助は全身に感じている。そう、今此処にいる全員がこの"余興"に酔い始めているのだ。
 だからこそか、それを逆手に取れる。敢えて"行為"に意識を向けさせれば、周りはこれから行われるであろう淫らな行為に期待し、恐らくは夜助の手先の細工などに気付かない。

「ぅ、あ…嫌だ、夜助、嫌だ…!こんなの…」
 彼の下で身を固め怯える飛鳥の様子が、周りには良い餌となるだろう。迫真、と言うよりはそれは真の恐怖からの反応なのだろうが、鬼と言われようが今は辛抱してもらうより他にない。彼女の首元に顔を埋めれば、飛鳥がひっと小さな悲鳴をあげ、ぴくりと身体を跳ねさせた。そっと彼女の頸近く手を回し、さも彼女を抱き竦める姿勢を演じながら、彼女の着物の襟首を探った。
 そうすれば、やはり、自分の考えは間違いではなかったと、思わず夜助は口角を上げる。彼女の襟首に隠された、小さな針を探り当て、怪しげに目を細めるのだ。

 周りに勘付かれない様に器用に針を口に含んでそっと顔を起こし、飛鳥へと視線を流す。夜助と目線のあった飛鳥は先程と一転し呆気にとられた様な表情をして夜助を見上げていたが、その表情の意味を察するに、どうやら彼女も違和感に気づき始めたらしい。
 確信として伝えるには、言葉で伝えられぬ今となってはその身で理解してもらう他方法もない。例え不服と言えど──この状況を打破する為ならば、任務を遂行する為ならば、自分はなんだってする男だ。それを不本意だが今となっては彼女こそが一番よく知っている筈。
 その意図を漸く汲んでか、これから夜助が取るであろう行動を予測して、飛鳥の顔が俄然ぽぽぽと赤くなる。然し構うまいと彼女の後頭部に手を回し、徐に顔を近づける夜助に、ヒュッと飛鳥から息を呑む音が確りと聞こえた。
「う、うそ…待て、夜助…!夜助、待っ──ッ!」
 制止の言葉など聞き入れている場合でもない。夜助は煩わしく一瞬眉を顰めたのち、顔を赤くして小声でポツポツと訴えかける飛鳥の言葉を奪う様に。一見してみれば"口吸い"となる行為を、商人達の手前で演じてみせる。身体を強張らせ、目を固く瞑り、それを受け入れるしかない飛鳥の口腔内へと慎重に、巧みに舌を扱って、先程口に含んだ針を口移ししていく。薄らと瞳を開け、夜助の口内から渡される小さな針の感覚を舌の上に感じ、飛鳥はそれを知らせるかの様に夜助の着物袖をくいくい、と二度引いた。

「──ッ……」
 それが合図の様に、夜助がふっと息を吐き唇を離す。自身の口角を荒々しく手で拭いつつ、その視線をくるりと周りの人間達へと移して様子を伺った。
…気付かれてはいない。そう察し、もう一度視線を飛鳥に戻す。飛鳥は変わらずの赤面のままで此方から視線を外していたが、口を固く閉ざし、確かに夜助から預かったそれを口腔内に慎重に忍ばせている。取り敢えずは、成功と言えるだろう。
──これは、毒針だ。
 飛鳥自身がもしもを思い着物の襟首に忍ばせておいた隠し武器。皮膚に突き刺せば忽ちその効能を発し、小さいながらも強力な毒性をみせる……夜助のみが知る、幼い頃からの飛鳥自身の最終手段。
 昔から臆病な性格だった彼女は、何処かしらに武器を隠し持ち、入念に自身の守りを固めるのが癖だった。よもや、それを今でも続けているとは思わなんだが、その苦労性とも取れる彼女の性格にこの状況下で救われる形となるのだから、滑稽も良いところだ。
「っ……….、」
 針を口に含んだままで、チラリと飛鳥は夜助へと視線を向ける。その後、顔の目前で腕を交差させて顔を隠すと、深く深呼吸をして無抵抗を示した。恐らくは、否完全に夜助の考えを読んだのだろう。先程の様に怯え、悲痛に叫ぶ事をせず、夜助が次の行為へ移れる様に、羞恥に耐えつつも抵抗をせずに身体を開いている。
 夜助が無言で飛鳥の太腿へと手を添え、愛撫の様にその肌を上へと撫で上げれば、彼の手先の熱を直接肌に感じた事で飛鳥から震えるような吐息が漏れる。唇を一文字に結ぶと目を固く閉じて、懸命に体の力を抜き、彼の思う様に、彼の考えに順応をする。
 手探りで彼女の下半身を探る内、彼女の着物の裏地にて、明確な金属の冷たさを感じ取る。其れが小型の苦無であると理解する迄に刻は剝かず、夜助は目を細め、薄く口角をあげた。こんなにも至る所に武器を隠し持っている飛鳥に、やはりこいつ女じゃねぇな、なんて内心で独り言を呟く。

「っ、ぁ……」
 周りの人間にそれを悟られぬ様苦無を取り外せば、飛鳥の腰へと両手を回し、彼女の体を抱き起こす様に自分の膝へと座らせる。
…こんな形とはいえ、夜助の腕にこうして収まるのは、共に行動してきた中でも初めての事だった。依然として熱い体の熱に犯されつつも、それでも彼の腕の中に収まることで、先程までの動揺も、憂いも──、一切の不安感も溶けていく事を、飛鳥はこの一瞬に骨身に感じとった。
 ふわり、と自身の肩に身を任せるように顔を埋める飛鳥の瞳は、何処か先程とは違う落ち着きを孕んでいる。彼女の耳元へと口を近づけると、低く、簡潔に、顰めた声で。夜助は漸くとして、その口を開くのだ。
「……懐にお前の苦無が入ってる。……俺が抜刀したら投げろよ」
 耳元で囁かれた彼の指示を聞き取り、飛鳥は素直に、小さくこくりと頷いた。夜助の懐へと手を忍ばせ、自身が隠し持っていた小型苦無を手掴む。同時に、夜助は徐に飛鳥の腰に蓄えた二刀の小太刀へと手をかけて────


「ッ!!貴様ら!動くな!!」

 二人の行動の変化に気付いたのか、敵の一人が場を切り裂く様にそう叫んだ。その怒声に反応し、周りの人間もその異変に気付くも、然しそんなもの、今更気付いたって遅すぎる。
 勢いよく飛鳥の小太刀を抜刀した夜助の動きを合図に、飛鳥が苦無を敵の額へと投げつけた。それを手始めとして、咄嗟の事態に身を引いた商人を逃さぬ様、夜助から素早く離れて毒針を手に標的の右目へと投げつける。俄然、状況の変わった事態に刀を持ち、被さる様に二人へと出鱈目に襲いかかる男達の喉元へ、夜助は躊躇いなく小太刀を投げつけた。さも流れ作業の様に、床に放られた刀を蹴り上げ手に持ち取ると、素早くも的確に、かつ無惨に容易く、掛かってきた物達を斬り伏せる。
 なんとも刹那の出来事だった。刀を持ち斯して対等な戦いとして挑んでしまえば、自分達が敗ける勝負では到底ないのだから。

「───ァ、グ!!」
 瞳に針を受け、這いずる様に退いていた商人の首を、勢いよく踏みつける。騒動により行燈の火が消えた室内は酷い暗闇で、それ好機と逃げようとしていたらしい商人は、頸に鈍い痛みを感じ嗚咽をこぼす。
見上げる先、室内の暗闇に馴染むほどの漆黒を捉える。男を見下げる夜助の銀の瞳は、明確な苛立ちにギラギラと光っている。
「……金持ちが好む道楽ってぇのは熟俺には理解が及ばねぇわ。ああ、本当に…ヒヒ、良い趣味してるよ、オマエ?お陰さんで久しくこの俺も恥をかけた」
 口調は冷静でありつつも、散々与えられた屈辱は恐らく夜助には終ぞ忘れ得ぬ物の一つとなったか、踏みつける足にはこれでもかと苛烈に力が込められている。首に無容赦にかかる重力に、商人は苦しみからバタバタと手足をばたつかせ抵抗を示したが、今となっては些細な足掻きでしか無い。
 その抵抗を冷ややかに見下しつつ、最後、一瞬足の力を緩めた後で。
──ゴキンッ。
 無惨に、その首の骨を踏み砕く。僅かな痙攣を見せ動かなくなる商人の顔面に最後、やり場のない苛立ちを込めた蹴りを一発入れてから、夜助は無言で室内に放られた自身の仮面を拾い上げる。

 随分と回り道をした物だ。我ながら酷い不覚を取った。その上こんな小物に遊ばれる隙を見せた事といい、斯様な不足の事態に落ちた事といい──。あの香が即効性とは言え、効果切れが早かったのが唯一の救いとなっただろう。とは言え、今でも効果は体に残っているのか、胸焼けする様な身体の熱さは依然として収まっている様子もない。気色悪く装束に染みついたこの香の香りも、早く落としてしまわないと頭痛が起きそうなのだ。

「……夜助」
 静寂を見せた室内で背後より呼び止められ、ぴくりと眉を動かす。変わらずの不機嫌な顔はそのままに、返答をしないまま煩わしそうに自分を呼んだ者、飛鳥の方へと振り返る。
 彼女は何処か気まずそうに着物を整えながら視線を泳がせて、然りとも何か言いたげに、徐に此方に歩み寄ってくる。…仕方ないとはいえ、彼女にとっては相当過去の傷を抉るであろう手段を選んだ筈なのだが、如何様な風の吹き回しか、自身の着物袖をくいとひき、こつりとその額を夜助の背へと預けて、飛鳥は夜助へと体を寄せてくる。それはまるで、甘える様な仕草で。
「……邪魔だよ。さっさと小太刀を回収してこい。裏山道で待つ半蔵と柚月に合図をして、此処から引き上げ」
「……私は。」
 夜助の言葉を遮る様に彼女から言葉が被さる。振り払おうと軽く振った腕にも、しがみつく様に飛鳥は腕を回し、尚も夜助の着物へと顔を埋めた。その表情を、隠す様に。

「…私は、夜助に順応……出来ていただろうか」

 ぽつ、ぽつと控えめに、此方の気を伺う様に弱々しく溢された言葉。彼女の言葉の意図を汲み、先日の言い合いも重なって改めて夜助は彼女の後悔を感じ取る。恐らくは彼女があの喧嘩以来、酷く躍起となっていた事。自身が浴びせられた言葉の挽回を望んでか、無茶をした事。それは無論夜助とて察していた事ではあったが、まさかこれ程までに気にかけていた事であったとは、我が妹ながら殆に呆れる。夜助自身は正直、然程として気にかけていなかった事だから、尚更。
 呆れた様に虚空に視界を向けた後でため息をついた夜助の呼吸の音を聞けば、ぐ、となお力を込めて腕にしがみつく飛鳥。そんな彼女に夜助はふらと視線を戻す。
「……ごめん、なさい、兄様…。飛鳥は意地を張りました。貴方の失望を受ける度、見限られる事を酷く恐れる私が居ります。然りとて──」
 震える様な声色で紡がれた言葉に眉を顰める。咄嗟に言葉を奪われた。突如、人格が変わったかの様に幼子の様に縋る言葉。それは、夜助が覚えのない彼女の姿ではないからこそ、……否、よく見知っていた彼女の姿だったからこそ、尚更。

 今となっては遠い過去となる。彼女が捨てた筈の、夜助が捨てさせた筈の、飛鳥の姿。臆病で弱々しい、あの頃に重なり──
「そんな私を……やはり随一として理解してくれているのは……兄様、だけだから……っ。どうか、私を見限らないで……側に、置いて。」

 きゅう、と腕に込められる力。泣き出しそうな声でそういう彼女の姿に一瞬呆気に取られた後で、一息置き舌打ちをした。その彼女の言葉に込められた意味を、縋る想いを────理解できないと言えば、嘘になる。けれどそんな物、夜助にとっては無用で……或いは枷にさえなる。だからこそ振り払う。そんな想いを俺に振り翳すなと。押し付けるなと、今後も恐らく、突き放す。
 甘えなんて聞かない。要らない、無用で邪魔で、煩わしい。だからこそだ、そんな依存、自分は二度と望まない、欲しいとさえ思わないけれど、皮肉にも最早自分は切り離せぬ程に彼女の達の"兄"なのだ。側に在りたいと思うのなら──。
「身勝手尽に付いて来りゃ良い。振り落とされたくねぇんなら、さも豪胆に今迄通り、勝手にしろよ。どうせ、お前は俺の言う事を聞かねぇだろうが?」

 手を振り払い、煩わしそうに声を荒げた。身体を離し、いつもの如く素っ気のない彼の言葉は、こんな時でも甘えを一切許してはくれないけれど。その一言の言葉でも、今の飛鳥には精一杯の彼の許しに感じた。俯き加減だった顔を上げて、飛鳥は眉を下げ、薄らと小さく笑う。
 敵の首へと突き刺さる小太刀を抜き取り、納刀しながら、血生臭さの残るこの場を去る兄上の背を追いかける。


───正直、嬉しかったのだ。
 あの窮地にて、夜助がよもや自分の癖を覚えており、そして自分の力量を信じ、扱ってくれた事が。
 夜助にとってはあの様な行為、任務遂行の為の苦肉手段でしかなかったかも知れない。然しあの状況下において、不本意と言えども自身に触れた、夜助の手つきを。彼の腕に収まった時の温もりを。あの安心感を、屹度、飛鳥は永劫として忘れられないだろう。

……否、その様な事口が裂けても夜助には言えぬ事だろうが、それでも然し長年、その様なやりとりがなくとも、やはり、彼は自分の兄に違いないのだと、身にしみて思い知る。
 無関心そうなふりをして、結局は誰よりも、自分の事を知り尽くしてくれている。だからこそ敵わなく、故あれば焦がれてしまう。

 いつか自分が唯一として随一、そんな彼の理解者になれる事を望むなら────その考えはやはり、彼の言うような「自惚れ」の類であるのかと。
 飛鳥はため息として、尚もやり場のない内の熱を、逃すように吐き出す。そしてこの想いを抱え彼の背を追い、彼の様な漆黒を纏う夜闇の中へと、己の身を溶かしていった。